【一】
ゲーテが去ったあの日は夏の夜だった、星は水のように澄んでいたのに、空からは雪が降ってきた。彼には叶えられなかった願いがあると、誰かがライスリーに伝えた。彼女はその願いを知っている、けど彼女は何もできない。
ライスリーとゲーテの初対面は、ゲーテホテルだった。身だしなみが整った紳士は微笑みながら自分を見ていた、彼女は彼の褐色の瞳に自分が映っているのがはっきりと見えた。でも逃亡の旅で埃まみれな自分の姿は、人に見せたものじゃない。ライスリーは慌てて視線を逸らす、しかしカウンターの後ろに佇むくっきりした顔立ちの紳士は気落ちせず、彼女に紅茶を淹れる。
「美しいお嬢さん、どうなさいましたか?」それはゲーテがライスリーへの初めての言葉だった。
【二】
ゲーテホテルは噂通り、この混乱とした世界の避難所と言える場所だ。鉱区から逃げてくる道程で、とある足が不自由なお爺さんがライスリーに教えた事だ、「ゲーテホテルはこの世で唯一の避難所だ、何故ならあそこのルールは他の所とは随分と違うのだから」
その話は間違っていない、ホテルの付近に住む人たちは皆知っている、ゲーテホテルのオーナーは和やかな人柄だが、若き頃は名立たる豪傑だった。ホテルの敷地内では身分の貴賤を問わず、誰もがオーナーの顔を立てなければならない、ホテルで諍い事を起こすなどもっての外。このルールは明記されていないが、ここ十数年、この辺境の町では誰もが従う不文律となっている。
「ゲーテさんは義理堅いお人だ」有識者は皆ホテルのオーナーを絶賛する。いつも温和な振る舞いをするゲーテさんはこの豪華ホテルを経営している、彼の資金はどこから来たのかは誰も知らない。だけど皆は知っている、訳ありで一晩の安らぎを必要としている客には、彼はいつも非常に低廉な値段で住まわせている。彼はこうやって黙々と居場所を失った人々を長年助けてきたのだ。
例えば、ライスリーのような人を。
【三】
ライスリーは鉱業が盛んな都市で仕事していた、そこは鉱山に囲まれ、無数の鉱脈が地下に眠るところ。そこではいつもどこかの誰かが鉱脈を掘り当て、一夜で大金持ちになったと言う話が伝わっている、ライスリーも同僚から彼女らの雇い主がそんな運のいい人だと聞く。多くの鉱場が経済を支えてくれるおかげで、その都市には仕事のチャンスが多かった、ライスリーは数年間勤勉に働き、ある程度の貯金をした。彼女は貯めたお金を家に送ったが、数日後、届いたのは母親の訃報だった。
ライスリーは理解できない、何故母親は突然病気で倒れたのか。それより不可解なのは、自分は家に帰りたいだけなのに、何故道中で怖い人達に追われるばかりなのか。どうしても変だ、生まれ育った家、いつも守ってくれた家、温もりを与えてくれる家が、一瞬で禁断の地に変貌したようだ。ライスリーは母親の墓に花を供えたいけど、今は家に帰る事すら叶わない。
風と雪を除いて、彼女の帰宅を迎える者はいない。
※続きのページは誰かに力一杯で破られたようだ、残った部分にはその者の怒りに満ちた書評がある。
「才能がないのなら猿真似はやめろ!」
「なんだこのあざとい文面は、見たい人などいるのか?」